石をも割る気合い爆発!「太刀割石」

ー『たちわりの石』

慶長五年(1600)高崎藩主井伊直政の許しを得て、馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり、当社に神助を祈り参篭し二十一日目の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後烏川畔に於いて見事、天流を破った。ー

え?

木剣でこんな石を割ったの? す、すごい!

何だか興味深かったので調べてみたら、この地域に伝わるすごい伝説があったんだ!
みんなに紹介するね。

これは江戸時代に入る直前のお話。

この頃、常陸の国(現茨城県)から村上天流という剣術の使いが高崎へ現れて、城下に町道場を開いたんだって。

天流は優れた腕前で、高崎藩の武士もたくさんの人が門弟になっていたの。

でもなぜか天流の道場に入門する人がいない地域があったんだ。

それは、多胡郡馬庭村(現高崎市吉井町馬庭)に馬庭念流の道場があり、多くの人が樋口定次(ひぐちさだつぐ)の指南を受けていたからなんだ。

二つの道場は比較的な近い場所にあり、お互い日頃派を争っていたらしいのん。

馬庭念流とは、樋口定次(ひぐちさだつぐ)が、馬庭村にて念流八世を継承し、それ以降樋口家が馬庭で伝承し続けるため通称馬庭念流と呼ばれる、伝統ある武術だよ。

門人たちには、「入門するからには、身持ちを慎み、決して軽はずみな行いをしてはならない。高慢は身を滅ぼすもとである」と、常日ごろ教え諭していたんだって。

ある頃から樋口の名声をねたんだ天流の門人達が

「樋口は百姓剣術だ」、

「俺の先生(天流)は天下の名人だ、おれの所へ入門しろ」

などと散々に念流をののしり天流を自慢するようになったんだ。

そのため天流と定次との間にミゾが出来てしまい、とうとう試合をして勝敗をつけることになったらしいのん。

その試合の為に、定次は日頃信仰していた山名八幡宮に願を掛け、身を清め、三日三晩篭って祈願したの。

お告げにあった大沢不動尊の霊域にあったビワのご神木で作った木剣を携えて、定次は社前のある大石の前に立ち、

「神のお告げにより得ましたこの木剣で天流との試合に臨みます。神のご加護によって本望を達する
ことができるならば、この木剣で神前の大石を打ち割らせて給え」

と、気合とともに「エイッ」とばかりに木剣を振り下ろすと、なんと!その大石は見事に打ち割られたんだって!

これによってその石を「太刀割石」(たちわり石)と呼ぶようになったんだ。

その後、慶長五年(1600)3月15日、天流と定次の雌雄を決する試合が行われたんだけど、さすが大石を割った木剣の力は強く天流をくだしたらしいのん!。

こんな伝説が高崎にあったんだ~!

このお話を聞いた後、再度石を見てみるともっと感動したのん。

実際見てみるととても大きな石だからみんなもビックリするのん。
是非みんなも見てみてね!

参照:上州の史話と伝説 その二 上毛新聞社  高崎・群馬Ⅱの伝説 鈴木重行 著

(上毛新聞タカタイ 2018年6月2日掲載内容に加筆修正)